前回、姫路の見野古墳群の「ミノ」が、渡来系氏族で漢部の一つ「美濃」を語源とするらしいとのお話をしました。
そのような目線で見ると、確かに見野古墳群出土の遺物には、渡来系を彷彿とさせるものがあります。
例えば、前回もご紹介した双室が特徴的な6号墳からは、鉄製の轡(くつわ)が出土しています。
轡とは、馬の口に装着して、コントロールする大陸由来の道具です。
船を使った水上交通から、乗馬による高速陸上移動へ。
轡は、そんな時代の大変革期を導いた道具の一つに違いありません。
そのような海外由来の最新の道具を有していた被葬者とは、どのような人物だったのでしょう。
市川と市辺皇子
見野古墳群の一角、八家川岸に、「大年神社」が鎮座しています。
ここで「あれ?」と思ってしまいました。
それは道中にも、「大歳神社」を見かけたことを思い出したからです。
こんな近距離に「オオトシ」という名の神社が二社も存在するなんて。
そう思って、地図を確認してみると……。
あらあら、この数、尋常ではありませんね。
調べたところによると、姫路市内に「オオトシ」と社名に付く神社は58社もあるようです。
特に気になるのは、市東部を流れる市川流域(図中央部を流れる川)に集中していること。
市川は、姫路を訪れる以前より、その名の由来が気になっていたのでなおさらです。
ちなみに、姫路の古墳群の分布も調べてみました。
こちらを見ると、古墳群も市川流域に集中していることがわかりますね。
私がなぜ市川が気になるかというと、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)を連想するからです。
市辺押磐皇子(以後、市辺皇子)は、履中天皇の皇子です。
「え? 名前に『市』が付くからだけ?」と笑われるかもしれませんが、最初は本当にそれだけのひらめきでした。
ここで、古事記に書かれた内容から、市辺皇子についてお話ししていきましょう。
安康天皇3年8月、安康天皇が眉輪王によって暗殺されるという事件が起きました。(詳しくはこちらをご覧ください)
次期天皇候補とされていた市辺皇子でしたが、この事件の後、彼が即位することに対し不満を抱いていた大泊瀬皇子(後の雄略天皇)により殺害されてしまいます。
父が殺され、身の危険を感じた市辺皇子の子どもたち、億計(ヲケ)と弘計(オケ)は、丹波国へ逃れます。
その後兄弟は、さらに播磨国赤石に逃れ、馬使いとして下働きをしながら身を隠します。
そんな逃亡生活を送っていた兄弟でしたが、雄略天皇の死後、宮中に迎えられ、仁賢天皇(弘計)・顕宗天皇(億計)として即位することになります。
丹波を経て播磨へ逃れた市辺皇子の子供たち。
このような経路を辿ったのも、闇雲にではなく、それらの地に協力者がいたと考えるのが自然でしょう。
一方市川は、丹波国と播磨国の境界近くに位置する三国山(朝来市生野町・旧但馬国)を源流とし、姫路を経て播磨灘に注ぐ川です。
つまり、市川一本で丹波と播磨は繋がっているのです。
兄弟がこの川を下って播磨へ移動したと考えれば、納得の経路でしょう。
そんな市川より、10kmほど東に位置する玉丘古墳(加西市)には、兄弟が求婚した姫の伝承が残っています。
これを婚姻による連合計画だったと考えれば、実際の彼らは馬使いとしてではなく、有力者として扱われていた可能性もありますね。
▶︎玉丘古墳 ウィキペディアより
また、皇統譜には存在しませんが、「播磨風土記」には「市辺天皇」という記載があり、実質的に市辺皇子が天皇に即位していた可能性が指摘されています。
姫路市内に多数鎮座するオオトシ神社
少し脱線しましたが、「オオトシ神社」に話を戻しましょう。
兵庫県には「オオトシ神社」が多く見られ、394社が数えられていますが、姫路市内の58社は県内でも最多だそうです。
前出の地図で示したように、それらの多くは市川流域に集中しています。
そんな市川を見下ろす、前回もご紹介した「甲(コウ)山」の山上には「甲(カブト)八幡神社」が鎮座しています。
甲八幡神社は、地域の神社を束ねる総氏神で、甲山周辺の豊富町だけでも、「大年神社」が八社も鎮座しているとのこと。
大年神は農耕の神として知られ、米作りに欠かせない川の流域に祀られていること自体は、不思議ではありません。
でもなぜ、兵庫県のしかも姫路市内に特に集中しているのか。
そのことについては、いくつかの説があるようです。
1、大年神は素戔嗚尊の親族だから
姫路城の北、広峰山に位置する広峯神社は素戔嗚尊を祀り、播磨の守護神として信仰を集めています。
そのため、古事記では素戔嗚尊の子とされている大年神も信仰を集めたのではないかとする説。
2、稲作を伝えた人々が播磨にとどまったから
西から稲作を伝えた人々の一部が、何らかの理由で播磨に留まり、彼らが信仰していた大年神が地域に根付いたとする説。
3、合祀後も地域の人々が大年神の名を残したかったから
元々はもっと多くのオオトシ神社が存在していたが、明治期の神社の統廃合により減少した。
しかし姫路では、合祀が進んだ後にも地域の人々が大年神を信仰し、その名を残し続けたからとする説。
これらの説については、機会があればまた詳しく検証してみたいと思います。
大年神社と葵の社紋
見野古墳群の大年神社を参拝していて、拝殿の瓦に目が止まりました。
葵ですね。
葵は賀茂系の神社でよく見られますが、このようなデザインは初めて見ました。
家紋でいうと、「花立葵」というものに近いようです。
似たような社紋の神社を探してみて、静岡県の浅間(せんげん)神社に至りました。
▶浅間神社 AC写真
浅間神社は、神部神社・浅間神社(二社同殿)及び大歳御祖神社の三社の総称で、大歳御祖神社の社紋が立葵でした。
所在地を見ると静岡県静岡市葵区。
地域名にも葵が含まれていることと、社紋が葵であることに共通の意味はあるのでしょうか。
大歳御祖神社の祭神である大歳御祖命は大年神の母神で、元々は安倍川河畔の安倍の市(古代の市場)の守護神であったとされています。
古代の市場として個人的に馴染みが深いのは、河内の餌香市(えがのいち)です。
餌香市は、河内を流れる餌香川(現在の石川)の左岸(藤井寺市の国府付近と考えられる)にあった古代の市で、日本書紀の雄略天皇の項にその名称が見られます。
餌香市があった一帯は、渡来人の集住地とされていますが、安倍の市があった静岡市内にも渡来系氏族である秦氏の祖神を祀る寺があり、浅間神社の発祥についても、鎮座地である賤機山(しずはたやま)に秦氏が祖神を祀ったのが始まりとされているようです。
▶︎賤機山の南端の尾根上に造られた賤機山古墳 AC写真
前回、見野古墳群の由来である美濃も渡来系氏族であると書きましたが、場所は定かではありませんが、美濃市(みののいち)も存在していたということで、市と渡来人の融和性を感じます。
また、秦氏と賀茂氏の関係は深いとされ、京都の賀茂神社の葵祭りに対して、秦氏の神社である松尾大社の祭りは、西の葵祭りと呼ばれています。
そんな松尾大社の社紋は、立葵に似た二重葵。
▶︎松尾大社 AC写真
静岡の浅間神社(大歳御祖神社)は賤機山、京都の松尾大社は松尾山、姫路の大年神社は小富士山(麻生山)の、それぞれ山麓に鎮座しているという共通点もあります。
これらを総合的に考えると、見野の大年神社の社紋が葵であったのも、渡来系の名残なのかもしれません。
安倍と阿保
安倍市の話が出ましたが、「安倍」といえば、姫路市内で見かけた「安保」という地名も思い出します。
以前、三重県の伊賀を訪れた時、「アベとアボ」について調べ、ブログを書きました。
伊賀には阿閉(アベ)氏がいたとされていますが、元々は阿保(アボ)氏が伊賀国造を任じられていました。
▶︎伊賀で地元の人々により、大彦の墓と伝えられている御墓山古墳
しかし壬申の乱が起こり、勝利した天武天皇側についていた阿閉氏が、阿保氏に代わって伊賀を治めることになったのです。
「アベ」と「アボ」。
以下、現在私が認識している限りではありますが、両者の関係性を書き出してみます。
安倍氏の祖先は、四道将軍として北陸に派遣された孝元天皇の子、大彦とされています。
それに対して、安保氏の祖先は二系統あり、いずれも垂仁天皇の子とされています。
安保氏の中でも、伊賀の地を与えられたのは息速別命(いこはやわけのみこと)で、彼の母は丹波道主(たんばのみちぬし)の娘とされています。
ちょっとややこしいので、図を用意しました。
※破線部分は系譜を省略しています
丹波道主はその名の通り、丹波に派遣された将軍です。
ここで、市川で播磨と繋がっていた丹波が出てきましたね。
安保氏のもう一つの系統は、於知別命(おちわけのみこと)を祖とし、滋賀県の栗東辺りに居住したと伝えられます。
話が前後しますが、先出の市辺皇子は近江の蚊屋野(滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か)で雄略天皇によって殺害されたとされています。
そんな滋賀の大津には、壬申の乱で天武天皇に敗れた、大友皇子の宮がありました。
雄略天皇と天武天皇。
時代は違えど、クーデターを伴う政権交代があった時、いずれも滋賀が悲劇の舞台となったのは偶然でしょうか。
少し脱線しますが、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣には、安倍氏の祖である大彦の子孫を名乗る「オワケノオミ」が、雄略天皇に仕えていたと記されています。
▶埼玉県稲荷山古墳出土 金錯銘鉄剣
つまりこれは、開化天皇の時代に傍系となった大彦の子孫であり、安倍氏と祖を同じくする者が、雄略天皇を支持していたということですね。
それに対して、皇統を継いだ開化天皇の血を引く丹波道主の子孫が阿保氏ということになります。
市辺皇子と阿保氏に直接関係があるかはわかりませんが、彼のことを市辺天皇と呼び、丹波との繋がりが感じられる播磨の地に、阿保という地名が残ることに意味を感じてしまいます。