近江から伊賀へ広がっていた安保氏の勢力
前回は、阿保氏は滋賀の栗東と、三重の伊賀を拠点にした2系統があったとお話しました。
今回は、栗東の「栗」に注目して掘り下げたいと思います。
栗東周辺は、かつては栗田(栗太)郡と呼ばれていたという話も先日しました。
つまり、「栗」という文字は、この場所で古くから使われていた訳です。
伊賀安保氏と丹生、そして栗
栗東に行く前に、私は伊賀に行きました。
その時、使った道が奈良の桜井から三重の松阪方面へ続く国道165号で、この道は古代の道、初瀬街道をほぼなぞっています。
桜井の等彌神社の宮司様のお話によると、初瀬街道は、神武天皇が辿った道であり、道中では、古代から伊勢の海産物と奈良の山の幸を交換する市が開かれていたそうです。
そんな初瀬街道沿いの伊賀の地に、伊賀阿保氏の祖 息速別命(イキハヤワケ)の墓とされる西法花寺古墳があります。
そこからさらに東へ街道を走り、津市に入ると、道路際にむき出しの石室が現れます。
それは、入田(にゅうた)古墳という6世紀後半築造とされる円墳で、そばには日向古墳群があります。
そして、入田古墳を過ぎた直後には、七栗神社が鎮座しています。
この、「入田」と「七栗」という名称が、個人的には無関係とは思えないのです。
というのも、私の父方の出自は徳島市の入田という地であり、父方の姓は大栗というからです。
阿波にもある入田と栗
阿波にはある伝承があります。
それは、粟飯原(あいはら)氏という土着の民が、遠方から流れつき、衰弱していたオウゲツヒメに粟を炊いて食べさせたというもの。
粟飯原氏は、月読を祖神とするとありますから、おそらく海人族なのでしょう。
安保氏の祖先である彦坐王は日下部氏の祖であり、日下部氏が月読を祀っていたことは、栗東1でもお話させていただきました。
粟飯原氏は祖神が月読のため、その化身とされる兎を食さなかったそうですので、やはりこの辺りでも安保氏との共通点を感じます。
粟飯原氏に救われたオウゲツヒメが、もといた場所が伊勢の丹生、現在の三重県多気町の辺りとされています。
Google mapより引用
多気町には丹生地名があり、ここは辰砂の産地でもあります。
そんな多気町は、七栗神社から伊勢自動車道を、南下した位置にあります。
徳島の入田は丹生が変化したものだそうですから、入田古墳の入田も、丹生由来ではないかと考えています。
多気町で採取された辰砂は北上し、七栗神社のあたりから初瀬街道を使って、西へ運ばれたのではないでしょうか。
津市まで阿保氏の影響が及んでいたかはわかりませんが、栗東と七栗に共通する栗、そして阿波と伊勢に共通する入田に、何らかの結びつきを感じてしまいます。