鳥見山から下山してから、等彌神社の宮司様とお話しさせていただくお時間をいただきました。
この機会に、以前から気になっていたことを色々尋ねさせていただきました。
桃神社について
社務所のすぐそばに池があり、桃神社との案内板が立てられたやしろがあります。
初めは市杵島姫を祀っているのかと思いましたが、意富加牟豆美(オオカムヅミ)という桃の神様を祀っていると知り、以前から気になっていました。
ちなみに、意富加牟豆美とは、イザナギが黄泉の国でイザナミから逃げる際に投げた桃の神とされています。
宮司様に伺ったところ、神社でもこちらは市杵島姫と思って長年祀っていらしたそうですが、以前から、桃の神を祀っているとの伝承はあったようです。
数年前、現宮司様が祠を開けたところ、桃の神が祀られていることがわかったとのことでした。
八咫烏について
等彌神社からは、八咫烏(ヤタガラス)の土偶が出土したとされ、神社のシンボルとしても八咫烏が用いられています。
八咫烏の土偶は、どのような経緯で見つかったのでしょうか。
▶︎等彌神社のシンボル八咫烏
▶︎境内から見つかったとされる八咫烏の土偶(レプリカ)
宮司様「かつて下津尾社の奥に池があり、そのそばに大木の切り株がありました。その切り株を掘り起こしたところ、八咫烏の土偶と鉄刀が出てきたのですが、この時は発見した人物が持ち帰ってしまいました。ところが、その後身辺に不幸が続き、祟りを恐れた彼は神社に返しにきたそうです」
その大木が樹齢何年くらいのものだったのかはわかりませんが、木の根の下から見つかったということは、土偶も剣もかなり古いものだったと想像がつきます。
鉄刀は古墳時代のものとされているようですから、その時代に埋められたのかもしれませんね。
それにしてもこの土偶、八咫烏というには不思議な姿をしています。
これを八咫烏とした経緯や、社のシンボルを八咫烏とされている由来をお尋ねすると、日本書紀で神武天皇を導く鳥として登場する金鵄(きんし)からではないかとのことでした。
境内には、猿田彦も祀られています。
八咫烏も猿田彦も神武天皇を導いたとされるので、関連性を尋ねたところ、こちらは交流のあった伊勢の猿田彦神社より分詞されたそうで、直接、八咫烏とは関係が無いとのことです。
トミとはナガスネヒコのこと?
鳥見山、等彌神社と、いずれもトミが付きます。
神武天皇が初代天皇に即位する以前、鳥見山周辺は、饒速日(ニギハヤヒ)が統治していたと、前回のブログでもご説明しました。
しかし、もともとヤマトは長髄彦(ナガスネヒコ)の領地であり、饒速日はナガスネヒコの妹(娘との説もあり)と結婚したことで、この地の王になったのです。
長髄彦は別名トミヒコとも言うことから、鳥見山や等彌神社のトミは、長髄彦のことではないかと私は考えていました。
しかし宮司様曰く、トミ族とは饒速日の一族を指し、外山(トビ)を拠点にしていたと伝わるそうです。
▶︎赤く囲まれた場所が外山 鳥居とあるのが等彌神社の鳥居です。
トミ家という一族が出雲にいるとの話を聞いたことがありましたので、出雲との関係を尋ねると、「出雲もですが、実はトミ神社は千葉に多いんです」とのこと。
▶︎帰宅後に調べてみると、確かに千葉県にはトミ神社が複数鎮座していました。
宮司様「千葉の鳥見神社では饒速日を祀っています。なぜ、当社は天照大神を祀るのかと不思議がられますが、神武天皇にこの地を譲ったから、神武天皇の皇祖神である天照大神が祀られているのです」
なるほどとうなずく私に、宮司様はさらにお話しを続けられます。
宮司様「こちらでは、饒速日が神武天皇に統治権を譲ってから、トミ族がどこへ行ったかも伝えられています。彼らは、メスリ山古墳のそばにある春日神社のあたりに移住したとされているのです」
1つ目の地図をご覧いただくと、左下に春日神社との文字が見えます。
神社に伝わる話によると、神武天皇に統治権を譲った後、饒速日と彼の一族は、春日神社の辺りに移り住んだとされているようです。
▶︎メスリ山古墳出土の巨大な埴輪 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示
春日神社のそばにあるメスリ山古墳は、鳥見山古墳群に属する、4世紀初頭に築造された前方後円墳で、墳丘長は224m。
規模、埋葬品とも大王墓級とのことですが、陵墓としての伝承は無いそうです。
神社の伝承通りであるなら、トミ族の首長の墓の可能性もあるのでしょうか?
画文帯神獣鏡はどこで見つかったのか
2015年、等彌神社に、神宝として画文帯神獣鏡が所蔵されていることがわかりました。
等彌神社にはこれまでにも、鉄刀(木の根の下から見つかったもの?)と勾玉(全長7.4cmもあるそう)が所蔵されていることがわかっており、鏡が加わることで三種の神器が揃うと当時は話題になったようです。
こちらの鏡も境内から出土したのか宮司様に伺ってみましたが、「境内ではなく、鳥見山周辺で見つかったということしかわからない」とのことでした。
ネットで調べたところ、こちらの画文帯神獣鏡は、鳥見山周辺の古墳から出土した可能性があるとのこと。
画文帯神獣鏡といえば、魏志倭人伝で魏から卑弥呼に送られた銅鏡100枚との説もありますから、どのような経緯で被葬者の手に渡ったのか、気になりますね。
宮司様のお話では、銅鏡は棺の中から見つかったとのこと。
見つかった場所が不明なのに、なぜ埋葬状況がわかるのかは不明ですが、もしそれが本当であれば、棺の中に副葬品を入れるというのは、日本の習慣ではないと聞いたことがあります。(時代が下ると棺の中に入れる例も出てくるとか)
銅鏡自体も中国鏡と見られているそうですし、渡来人の墓から見つかった可能性があるのでしょうか。
2021/12/08 追加
こちらの銅鏡について、金ヶ崎古墳(消滅古墳)出土との情報をいただきました。
関連記事がありましたので、リンクを張っておきます。
桜井にもあった鯖街道
最後に、鳥見山についてのお話しも伺いました。
登山道の途中に、霊畤(まつりにわ・れいじ)遥拝所がありましたが、上津尾社(上社)は、以前はその場所に鎮座していたそうです。
1112年に山崩れに遭い、現在の場所に遷されたそうです。
▶︎霊畤遥拝所
「尾根伝いの道で、ずっと三輪山を見ながら歩けるというのも意味があると思ったのですが、麓を見ればおそらく初瀬街道が見えますね。私は初瀬街道も古代の重要な道として気になっているんです。だとすれば鳥見山は、初瀬街道を見張る場所でもあったのではないかと思いまして」
とお話しすると、宮司様が「初瀬街道は、鯖街道ですからね」と一言。
鯖街道といえば、若狭と京都を結ぶ道しか思い浮かばなかった私は、その言葉にすぐにはピンときませんでした。
「若狭の鯖街道はまだまだ新しい。桜井の鯖街道は神武天皇が歩いた道です」
初瀬街道とは、桜井を起点として宇陀、名張、伊賀、松坂、伊勢と、東国へ続く道です。
伊勢湾で獲れた海産物をヤマトに運ぶには、最短ルートと言えるでしょう。
▶︎名張で見た初瀬街道の標識
私「神武天皇は、熊野からヤマト入りしたと伝えられていますが……」
宮司様「熊野には、後に周ったのでしょう。天武天皇もこの道を使ったんです」
確かに、天武天皇も大海皇子だった時代、勢力争いから逃れる時に、宇陀や伊賀を通ったとの伝承があります。
▶︎宇陀の阿紀神社の社地にある高天原の看板
宮司様「鯖街道だったから、柿の葉寿司があるんですよ」
これも驚きでした。
柿の葉寿司は、どちらかというと近代に生まれたものだと思っていましたが、まさか、古代の鯖街道に由来するものだったとは。
宮司様のお話しによると、桜井の初瀬街道沿いには古代の市があり、海の幸と山の幸の物々交換が行われていたとか。
残念ながら、市があったことを実証する資料を見つけることはできませんでしたが、古代、初瀬(泊瀬・長谷)の渓谷は、「隠国(こもりく)の初瀬」ともよばれ、渓谷にそって東西の道が発達した要衝の地とされていたようです。
伊勢への道であり、雄略天皇の泊瀬朝倉宮(『日本書紀』雄略紀)、武烈天皇の泊瀬列城宮(『日本書紀』武烈紀)の伝承地がある初瀬街道。
初瀬街道を見下ろす場所に立地する長谷寺は、街道を監視するための施設だったのではないかと考えています。
沿道には、土師氏の祖とされる野見宿禰が出雲族を引き連れて移住してきたと言う出雲地名があり、彼らが祀った神社や野見宿禰の塚もあります。
泊瀬、長谷寺、初瀬、土師(ハセとも読む)。
いずれも音が似ており、前々から同じ意味であった可能性を疑っていましたが、宮司様のお話しを伺って、その思いがさらに深まりました。
同時に、以前、初瀬街道の末端に位置する、三重県松坂市の宝塚古墳から伊勢湾を眺めて、「ここからなら、関東にも簡単に行けそう」と感じたことを思い出しました。
▶︎宝塚古墳から見た伊勢湾
畿内から東国への最大の難所は、紀伊半島です。
難波(大阪)から船で行こうとすれば、その巨大な半島の周囲を大回りしなければなりません。
だからこそ、紀伊半島をショートカットできる初瀬街道が、古代において重要であったと考えていたのです。
伊勢まで出てしまえば、富士山を目印に海上を東に進み、その先に伊豆半島、やがては房総半島まで見通せるでしょう。
そう考えれば、饒速日がこの地を拠点とし、彼を祀る鳥見神社が千葉に複数あることも、必然のような気がします。
今回は、お忙しい中、宮司様からは貴重なお話しをたくさん伺うことができました。
丁重にお礼を申し上げて、ライトアップされた境内を散策して帰路につきました。
※この日は取材目的では無かったので、失礼に当たると考え、メモなどは取っておりません。そのため、記憶を頼りに書いていますので、一部、記憶違い等があるかもしれませんが、ご了承ください。