気になる響き ウトとカワカミ
いつも、言葉遊びみたいな内容ばかりですみません。
でも、どうしても私の場合、言葉の響きが気になるのです。
今回のテーマは、「ウト」と「カワカミ」です。
ウト
宇度(うど)墓古墳
大阪府岬町 淡輪古墳群 被葬者は、垂仁天皇皇子 五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)に比定
菟砥(うと)河上宮跡
大阪府阪南市 五十瓊敷入彦はここで剣千口を作り、石上(いそのかみ)神宮に納めたと伝わる
鵜戸(うど)神宮
宮崎県日南市 神武天皇の父 鸕鶿草葺不合(うがやふきあえず)を祀る
男乃宇刀(おのうと)神社
大阪府和泉市 生駒山での長髄彦との戦いで、負傷した神武天皇と兄 五瀬が身を寄せた場所と伝わる。 オノ=五瀬 ウト=神武
宇土市
熊本県 阿蘇凝灰岩の産出場所(石棺などの用いられる。阿蘇ピンク石とも言う)
大阪府 宇度墓古墳(淡輪ニサンザイ古墳)
カワカミ
菟砥(ウト)河上宮跡
大阪府阪南市 五十瓊敷入彦はここで剣千口を作り、石上神宮に納めたと伝わる
丹生川上神社
神武天皇がヤマト平定に先立ち、水占いをしたと伝わる場所
河上麻須(カワカミノマス)
京都府久美浜 垂仁天皇の皇后 日葉酢媛の祖父
川上梟師(カワカミタケル)
ヤマトタケルによって倒された熊襲の長で、別名 熊襲タケル。ヤマトタケルにタケルの名を譲った
奈良県 丹生川上神社下社
ウトとカワカミの両方を名に持つ宮
すでにお気付きの方もいるかもしれませんが、菟砥河上宮には、いずれの響きも含まれています。
さらに、宮の管理者である五十瓊敷入彦の墓とされる古墳が宇度墓というのも、単なる偶然とは思えません。
五十瓊敷入彦は、垂仁天皇の長子であるにも関わらず、皇位を望まずに弓矢を欲し、弟の景行天皇が即位したと伝わります。
弓矢が意味するものが兵力なのか、武器なのかはわかりませんが、剣千口を作らせたと伝わることからも、鍛治技術に長けていたか、もしくは鍛治集団を束ねていた可能性があります。
また五十瓊敷入彦は、日本最古のダム式ため池 狭山池や高石池を築造したとも伝わっており、鉄だけでなく治水工事の技術も保持していたようです。
他の共通点も探ってみます。
大阪府 狭山池
神武天皇
男乃宇刀神社と丹生川上神社には神武天皇に関連する伝承があり、鵜戸神宮は神武天皇の父 鸕鶿草葺不合を祀ります。
これらの神社には、天皇家の祖に関連するという共通点が見られます。
宮崎県 鵜戸神宮(フォトAC)
熊
河上麻須は、孫娘たちが天皇に嫁いだことを喜び、久美浜のかぶと山山上に熊野神社を建てました。
彼の邸宅跡とされる場所は、熊野郡川上庄須田。
カワカミタケルは熊襲の長であり、阿蘇凝灰岩の産出地である宇土市は熊本県。
宇度墓古墳がある淡輪は、宇土から運ばれた阿蘇凝灰岩が引き上げられた場所との説もあります。
河上麻須の邸宅があったとされる須田伯耆谷は、王家の谷とも呼ばれ、金銅装双龍環頭大刀が出土した湯舟坂2号墳のある古墳群や遺跡があります。
丹後では砂鉄も採れるそうで、河上麻須が製鉄を行っていたという説もあります。
丹後の墳墓からは大量の鉄器が出土していますから、少なくとも鍛治は行われていたのではないでしょうか。
湯舟坂2号墳出土 金銅装双龍環頭大刀 文化庁データベースより引用
キーマンは五十瓊敷入彦
五十瓊敷入彦の母 日葉酢媛は河上麻須の孫ですから、五十瓊敷入彦にとって河上麻須は母方の曽祖父ということになります。
剣を千本作らせるほどの技術や人材は、母方から受け継がれたものなのかもしれません。
父方である天皇家の祖先 鸕鶿草葺不合を祀る鵜戸神社のウトと、母方のカワカミ。
もしかしたら五十瓊敷入彦は、神に奉じる大切な剣を作る宮の名を、両親の祖先からとって菟砥河上宮としたのかもしれません。
仮に、河上麻須のルーツが熊襲にあるとしたら……。
弟の景行天皇の命により、皇子であるヤマトタケルが熊襲を討ち、タケルの名を引き継いだことにどのような意味があるのでしょうか。
また日本書紀には、景行天皇自らが熊襲征伐に赴いたともあり、ヤマトタケルの子 仲哀天皇も、熊襲征伐に向かおうとして命を落としています。
景行天皇は五十瓊敷入彦と同母兄弟ですので、当然、彼にとっても、河上麻須は母方の曽祖父ということになります。
兄は祖先であるカワカミを宮の名に残し、弟とその子孫は誅滅しようとした。
そこには、どんな事情が隠されているのでしょうね。
芳年武者无類 日本武尊・川上梟師 国会図書館デジタルコレクションより引用