栗が付く地名を求めて
私の旧姓が大栗ということで、これまで友人たちが栗の付く地名を見つけては報告してくれました。
若狭湾に浮かぶ冠島周囲の海域を、オオグリということ。
その若狭湾西端にある栗田湾と、そこにせり出す栗田半島。
綾部市の上林と和知の間にそびえる大栗山と、大栗峠。
京都上賀茂神社のそばにある西加茂大栗町。
などなど。
冠島
栗田湾と栗田半島
綾部 大栗山
京都市 大栗町
お気付きの方もいらっしゃるかと思いますが、ここにあげたいずれの場所も、丹後を中心に京都府北部に集中しています。
丹後といえば、阿保氏の祖となる皇子たちのルーツと考えられる彦坐王が、四道将軍として派遣された地域です。
ここまで何度もお話してきましたが、彦坐王は日下部氏の祖であり、日下部氏は月読を信仰する海人族と考えられます。
彦坐王は、母を和邇氏に持ち、母の妹(オケツヒメ)を妻にするなど、和邇氏との関係も非常に深い人物です。
彦坐王とオケツヒメとの間に生まれた、山代之大筒木真若王の子孫には息長宿禰王があり、その娘が神功皇后ということで、息長氏とも繋がります。
このほか、彦坐王は天之御影神の子孫である息長水依媛も妻にしており、その間に生まれた丹波道主の娘たちが垂仁天皇に嫁ぎ、生まれた子供たちの中に阿保氏の祖がいるということになります。
つまり、かつての栗太郡の郡域には、建部大社(伊賀阿保氏後裔 建部氏が祀る)、御上神社(息長水依媛の親神 天御影神を祀る)、小槻大社(栗東阿保氏の祖先 小槻山君が祀る)という、いずれも彦坐王に関係する氏族の神社が鎮座していることになります。
建部大社(Wikipediaから引用)
御上神社
小槻大社
阿波入田(にゅうた)は古代の重要地点
私の父方の故郷、阿波の上一宮は大粟神社ですが、こちらは国府町に鎮座する八倉比売神社の論社の一つです。
大粟神社
八倉比売神社
八倉比売神社が鎮座する国府町には矢野銅鐸が出土した矢野遺跡があり、また、3世紀末築造とされる宮前古墳があることから、弥生時代から重要地点であったと考えています。
矢野銅鐸
宮前古墳は、築造時期も墳形も纏向石塚古墳に近いとされ、卑弥呼の時代の古墳としても注目しています。
宮前古墳
国府町の由来は国府が置かれていたからで、律令時代からもこの地域が阿波の政治的中心であったことを物語っています。
そんな国府町は、徳島市入田と分かれたもので、かつては同じ入田村に属していました。
安保氏と阿部氏の関係
大粟神社に祀られている大粟媛と八倉比売神社の八倉比売は、いずれもオオゲツヒメの別名との説があります。
徳島、いえかつては四国全体を大粟媛と呼んでいたとされ、大粟媛は阿波の語源でもある重要な女神です。
大粟神社の宮司様とお話させていただいたところ、大栗と大粟は、もとは同じものでしょうとのことでした。
たしかに、大栗と大粟は、ぱっと見よく似ています。
そんな宮司様のお名前は阿部さんであり、現在、伊賀でも一宮は阿部氏の祖 オオヒコを祀る敢國(あえくに)神社です。
もともと伊賀は阿保氏が国造を務めていましたが、壬申の乱で阿保氏は大友皇子側につき、天武天皇側について勝利した阿部氏に勢力が移ったとされています。
この点も、阿保氏の後裔 建部氏が大友皇子側について衰退したという話と一致します。
壬申の乱で敗者となった阿保氏とその一族は、その後、影が薄くなったのかもしれません。
関東にも残る安保氏の子孫と栗
徳島に多くみられる大栗姓ですが、調べてみると栃木県の壬生に一番多いようです。
壬生といえば、関東でも非常に古墳が多い地域として知られています。
ここを拠点にした壬生氏について調べてみたところ、阿保氏と同じルーツを持つことがわかりました。
壬生氏の記録によると、伊賀阿保氏の祖 イキハヤワケの後裔の小槻山氏から分かれたとあるそうです。(一般的には小槻山氏は栗東阿保氏の後裔とされている)
小槻山氏といえば、前回紹介した栗東の小槻大社を氏神とする、栗東阿保氏の一族です。
阿保氏の子孫が拠点にした壬生に多い大栗姓。
地図を見ると、佐野市には大栗地名もあるようです。
阿保氏と栗の関係は、まだはっきりとはわかりませんが、状況的に見ていくと、何らかの繋りがあるように思えてなりません。
関東には、多摩川水系に大栗川もあり、水域には縄文からの遺跡がみられるようで、そちらも気になります。
阿波と安房に共通する「アワ」の秘密も、もしかしたらこのあたりにあるのかもしれません。