陶邑(すえむら)と万代(もず)
崇神天皇の時代、三輪山の祭祀を司るために招致された、オオタタネコ。
彼は茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)で見つかったとされています。
地名の通り、陶邑は須恵器(すえき)の一大生産地で、かつては大阪府南部の丘陵地に、1000基にも及ぶ登り窯があったとされ、現在も一部が窯跡として保存されています。
▶陶邑窯跡群 大阪府南部の丘陵地帯で、古墳時代中期から平安時代にかけての約500年間に渡り、須恵器が生産されていたと考えられています。
一方で、堺市には、世界遺産にも認定された百舌鳥(もず)古墳群があります。
モズという地名の由来については、いくつか伝承がありますが、個人的には、「万代」と書いてモズと読む、土師(はじ)氏の一派がいたからとの説を支持しています。
土師氏とは、野見宿禰(のみのすくね)を祖とする焼き物の技術者集団で、古墳築造に際しても、中心的な役割を担っていたとされています。
日本最大の前方後円墳、仁徳天皇陵を含む百舌鳥古墳群を築造したモズの技術者たちは、土師氏の中でも選りすぐりの、スペシャリスト集団だったのかもしれませんね。
そんな野見宿禰が活躍したのは、崇神天皇の子、垂仁天皇の時代です。
日本書紀などによると、野見宿禰は垂仁天皇の命により、当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲を取り、勝利して領地を与えられたり、それまであった殉死の風習を取りやめて、埴輪を古墳に並べて葬送することを天皇に上奏(じょうそう)し、その功績により土師臣(はじのおみ)という称号を与えられたと伝えられています。
土師器と須恵器の違いと、堺における逆転の時系列
陶邑で作られていた土器は須恵器といい、金属的な艶のある鈍色(にびいろ)をしています。
一方の土師氏の一派であるモズが作った土器は、薄いオレンジから緋色をした土師器であると考えられます。
▶︎土師器
これらの色の違いは焼成温度の差にあるといわれ、一般的に高温窯を必要とする須恵器は、土師器より後発と考えられています。
ただし、以前ある学芸員さんから伺った話では、須恵器は土師器の発展形というわけではなく、新たに渡来してきた技術であろうとのことでした。
だとすれば、土師氏と陶邑の人々は、別系統と考えた方が良いかもしれません。
記紀に書かれた内容を真実だとするなら、父(崇神天皇)の時代にすでに須恵器の工房が陶邑にはあり、子(垂仁天皇)の時代になって、野見宿禰は土師氏の称号を与えられたことになります。
つまり、堺には、野見宿禰が土師と呼ばれる以前から、須恵器の工房があったということです。
このような、堺における時系列の逆転に、私は以前より違和感を持っていました。
もちろん、それ以前から土師器自体は堺にも存在していたはずですから、土師氏とは呼ばれなくても、土師器を焼いていた技術者たちはいたでしょう。
そんな、以前より土師器を制作していた堺の技術者たちが、後に土師氏の指導を受けてモズの名称を与えられ、古墳の築造に尽力したのかもしれませんね。
野見宿禰が初代神主だった神社
「石津神社」は、石津川の北岸、国道26号線沿いにある神社で、さらに下流のかつての河口部には、「石津太(いわつた)神社」が鎮座します。
これらの神社は、本社と御旅所のような関係にあるとみられ、石津太神社が鎮座する、かつては浜辺であった付近に、イザナギとイザナミの子、ヒルコが流れついたとの伝承があります。
▶︎石津太神社 境内に何本もある巨大な楠が、歴史を感じさせます。現在は南海本線の近く、やや内陸に鎮座していますが、かつては石津川河口の浜辺に位置していたそうです。
ヒルコはエビスと同神とされ、「石津神社」「石津太神社」のいずれも、日本最古の戎神社と称しています。
そんな「石津神社」の社務所の壁に掲げられた額を見てびっくり。
初代神主として、野見宿禰の名があるのです。
これはいったい、どういうことでしょう。
堺にもある嫁取り伝承
冒頭で、陶邑にいたオオタタネコは、三輪山の祭祀を司るために、崇神天皇によって招致されたと書きました。
ではなぜ彼は、祭司に選ばれたのでしょう。
ここで、野見宿禰の謎に迫る前に、オオタタネコの出生について、大まかな流れを説明させていただきます。
日本書紀によると、崇神天皇の時代、伝染病が流行して死者が相次ぎ、大きく国が乱れました。
苦悩する天皇の夢枕に大物主が現れ、「我が子のオオタタネコに私を祀らせれば、世は平らぐ」と告げました。
この神託に従って天皇が臣下に探させたところ、陶邑で見つかったのがオオタタネコだったのです。
▶︎陶荒田神社 オオタタネコが見つかったとされる陶邑は、この辺りにあったとも言われています。
このエピソードから、オオタタネコは大物主の子(古事記では子孫)であることがわかります。
そんな大物主には、有名な「おだまきの糸」という、嫁取り伝承があります。
美しい乙女 活玉依姫(いくたまよりひめ)が、夜な夜な通う麗しい青年と恋に落ち、やがて身ごもります。
不審に思った娘の両親は、青年の着物の裾に赤土の付いた糸を通した針を挿すように命じました。
青年が帰ったあとにその糸を手繰っていくと、三輪山に辿り着き、青年の正体が三輪山の神、大物主であることがわかったというものです。
オオタタネコは、このとき生まれた子、もしくはその子孫であることから、三輪山を祀る祭司とされたのです。
活玉依姫の父、大陶祇神(オオスエツミミ)は、その名に陶(スエ)が付くことから、焼き物、特に須恵器に関係した氏族の長であった可能性を疑っています。
堺市には、上神谷(にわ だに)という地名があり、かつては上神郷(かみつ みわ さと)と呼ばれていたようです。
ニワダニのニワや、カミツミワのミワとは神を意味し、ミワ、つまり三輪とも同意であるとも言われています。
たしかに、大物主を祀る大神(おおみわ)神社も、神と書いてミワと読みますね。
上神谷には、桜井氏が祖神を奉斎したことを創祀とする櫻井神社があり、三輪山がある桜井地名との関連性も気になるところです。
これらを総合すると、陶邑の長(おさ)大陶祇神の娘と大物主の子孫が、母方の郷で養育(疎開?)されており、そんな彼を崇神天皇が陶邑で見つけて、三輪山の神(大物主)を祀らせたという流れが浮かんできます。
▶︎櫻井神社 別名「上神谷(にわだに)の八幡さん」とも呼ばれています。
崇神天皇が三輪山を祀らせたのは、おそらくは、もともと三輪を治めていた大物主を倒したことから、その祟りを恐れてのことでしょう。
陶邑が大物主と姻戚関係にあったとしたら、これとよく似た構図が、堺でも生じた可能性があります。
以下、想像。
ある時、堺に土師氏と呼ばれる、野見宿禰を祖とする一派が侵攻してきた。
平定後、定住した彼らは、為政者が代わったことを世に知らしめ、また、外圧勢力に権威を示すために、ヤマト政権の象徴である前方後円墳を、交通の要所に築造していった。
それと同時に、先住者の反乱や祟りを恐れた彼らは、敗者側の祖神である大物主を丁重に祀った。
このように考えると、石津太神社の初代神主として、野見宿禰の名があることも、納得できるような気がします。
大物主とエビスさん
ここで、ここまでしっかりと読み進めてきていただいた方の中には、疑問を持たれた方がいらっしゃるかもしれません。
「野見宿禰が大物主を祀ったというけれど、石津神社や石津太神社はエビス社と呼ばれていたんじゃなかったの?」と。
▶︎石津神社の境内にある大楠 右下の石柱には、「日本笑姿(エビス?)初石津大社」と彫られています。
実は、エビスさんは事代主(ことしろぬし)と同神との説があり、実際に石津神社と石津太神社には、八重事代主が祭神として祀られています。
さらにその事代主は、大物主と同一との話もあります。
だとすれば、石津川の河口に漂着したと伝わるヒルコは、エビスであり、事代主であり、大物主ということになりますね。
この辺りは、正直言って神話や伝承の世界なので、事実確認は困難です。
ただ個人的には、同一かどうかはともかく、これらの神々が同じ系統にカテゴライズされていることに意味があると感じています。
さらに興味深いのは、事代主には五十鈴(イスズ)と名に付く姉妹がいること。
姉妹の一人、ヒメタタライスズヒメは、古事記では大物主が人間の娘に産ませた子とあり、これも事代主と大物主を同神とする根拠の一つになっています。
それにしても、この「イスズ」という響き、石津川の「イシズ」と似ていませんか?
石津川の由来は「川で石を積んだから」とも言われていますが、私は以前から「イシヅ」と「イスズ」は、同意ではないかと疑っています。
ヒメタタライスズヒメは神武天皇の妻となる女性で、古事記によると、二人は三輪山を源流とする狭井川の岸辺で出会ったとされています。
タタラという響きからは、金属加工や焼き物など、火を使う氏族出身のイメージを受けますし、伊勢神宮の内宮を流れる川は五十鈴川……。
……これ以上妄想を広げると、どんどん今回のテーマから離れていきますので、この先のお話は、またの機会にいたしましょう。