飛鳥に突如現れた宇宙人の秘密基地?
最近、復元されたばかりで話題の牽牛子塚(けんごしづか)古墳へ見学に行ってきました。
写真では、コンクリートの塊のように見えましたが、そばで見ると貼石がなされています。
当時から、現在に近い姿をしていたとしたら、日光を反射して白く輝き、目を見張る建造物だったでしょう。
何より圧巻なのは、埋葬施設。
約80トンもあるといわれる一個の岩を、間仕切をつけて二室にくり抜き、それぞれに棺が安置されていたそうです。
▶︎現地案内看板より
しかも、これ程の巨石を、約15km離れた二上山山麓から運んできたと考えられるというから、また驚き。
今回は残念ながら、埋葬施設を直接見ることができませんでしたが、同クラスの横口式石槨の制作途中とも言われる益田岩船を目にする事で、その巨大さを実感する事ができました。
▶︎益田岩船 上部の2つの穴が棺の入っていた2室であったと言われれば納得
まだ牽牛子塚古墳をご覧になっていない方には、理解を深めるためにも、益田岩船をセットで見学する事をお勧めします。
ちなみに、牽牛子塚の牽牛子(けんごし)とは朝顔のことだそうです。
これは、こちらの古墳が八角形で、真上から見ると朝顔の形に似ていることに由来するとのこと。
▶︎現地案内看板より
読み方は異なりますが、牽牛(けんぎゅう)といえば、七夕伝説の彦星を連想します。
七夕(旧暦)の頃に咲くから、朝顔を牽牛子と呼んだのかな?
コシとコセ
そんな風に思ったりしていたのですが、もしかしたら牽牛子(けんごし)の「コシ」に意味があるのかも?と後ほど思い直しました。
というのも、途中で参拝して気になった「許世津比古(こせつひこ)神社」の社名。
響きとしてはコセですが、玉垣に「越氏子」とありましたし、こちらの神社が鎮座する地域は越といいます。
調べてみると、やはり、許世が越に変化したと考えられているようです。
コセといえば古代豪族巨勢(こせ)氏を連想しますが、やはりこちらの神社は、武内宿禰の子孫とされる巨勢氏に関係があるようです。
境内に「五郎社」と刻まれた灯籠があり、そちらも調べてみると、武内宿禰の第五子、巨勢小柄宿禰が祀られているため、かつてはそのように呼ばれていたようです。
御所(ごせ)で勢力を広げていたとされる巨勢氏ですが、飛鳥にもその拠点があったということでしょうか。
飛鳥といえば、蘇我氏が浮かびますが、蘇我氏も巨勢氏と同じく、武内宿禰を祖とする一族であると言われていますね。
天智天皇に関わる女性たち
そして越といえば、北陸の越国を思い浮かべます。
牽牛子塚古墳の被葬者は、天智天皇と天武天皇の母、斉明天皇の可能性が高まっているそうです。
そして隣接する越塚御門(こしつかごもん)古墳には、天智天皇の娘で斉明天皇の孫にあたる、大田皇女が眠っているとされています。
▶︎越塚御門古墳 内部
天智天皇といえば、近江の大津に宮がありましたが、越道君伊羅都売という妃がいることから、越とも何らかの繋がりがあったかもしれません。(飛鳥の越と越国の関連性については推測です)
そして、大田皇女の母は、蘇我倉山田石川麻呂の娘。
ここで蘇我氏とも繋がってくるのですね。
牽牛子塚古墳からは人骨が出ているそうで、現在、どこまで解明されているのかはわかりませんが、もし女性のものであると判明すれば、斉明天皇の墓との説に信憑性が増しそうですね。
身狭(ムサ)・見瀬(ムサ)・牟佐(ムサ)
益田岩船から橿原市の岡寺駅へ向かう途中、神社の鳥居が見えました。
先を急いでいたので参拝はできなかったのですが、なんとなく気になり、後ほど社名から情報を集めようと鳥居の扁額だけ急いで撮影しました。
牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)と読むようですが、私には、その社名に聞き覚えがありました。
それは、益田岩船から橿原方面に山を降り、途中立ち寄った沼山古墳の案内板にあった地名です。
案内板によると、沼山古墳は、身狭(むさ)と呼ばれた地域に位置するとのこと。
牟佐と身狭。
漢字は違いますが、これらはおそらく同じ意味なのでしょう。
そう思って調べてみると、やはり牟佐坐神社は、渡来人の身狭村主青(身狭青(むさ の あお))が、夢に現れた生雷神を祀ったのが始まりとされているようです。
おそらく、沼山古墳がある身狭という地名も、身狭青の出自である、身狭氏からきたものでしょう。
また案内板には、身狭は東漢氏(やまとのあやうじ)が定住していたとされる飛鳥の桧前(ひのくま)地域に隣接している、とも書かれています。
桧前には、朝鮮半島由来の大壁が見つかった桧前遺跡群や、東漢氏の氏寺「檜隈寺跡」もあり、沼山古墳も、墳形や出土品、埋葬施設の形状などから、同じ文化を持つ者の墓と考えられているようです。
渡来系帰化人が残した織姫伝説
日本書紀には、身狭青は東漢氏(やまとのあやうじ)配下の渡来系帰化人で、雄略天皇の時代に呉に派遣され、機織や裁縫の技術を持った漢織、呉織、兄媛、弟媛らを連れて来たと記されています。
同書には、応神天皇の時代と雄略天皇の時代の項に、呉から縫工女(きぬぬいめ)を招致したとの記述もありますが、国史大辞典には、これらは1つの事柄を2つの時期に分けたか、前者に後者の記事が混同したのではないかと書かれているそうです。
応神天皇陵のある河内の石川(餌香川)沿いには、渡来人が市(餌香市)を開き、その力を蘇我氏が活用していたそうですので、河内にも飛鳥と同じく、蘇我氏と、それを支える渡来人という構図があったのかもしれません。
渡来系の織姫といえば、北摂の池田市にも、応神天皇の時代に呉からやってきた「アヤハトリ」「クレハトリ」姉妹の伝承があります。
こちらでは、織姫たちを渡来系氏族東漢氏の祖、阿知使主(あちのおみ)と、その子、都加使主(つかのおみ)が連れ帰ったとされています。
▶︎伊居太神社(いけだじんじゃ) 呉から来た織姫姉妹の妹「アヤハトリ」を祀る。境内社の猪名津彦社 に祭神として、彼女らを連れて来た、阿知使主と都加使主が祀られています。
『新撰姓氏録』「左京諸蕃」によると、「牟佐(身狭)村主」は呉王 孫権の子孫とあり、阿知使主が織姫たちと共に呉から率いてきたとあります。
時代や地域は異なりますが、渡来系の人々の間で語られていた先祖の話を、それぞれ定住した地に残したのかもしれませんね。
栄枯盛衰を見つめて
蘇我氏は、そんな渡来系の豪族を束ねる、東漢氏の技術力や学問に支えられて権力を保持し、飛鳥に最初の仏教文化を開花させました。
そうして飛鳥の地で栄華を極めた蘇我氏ですが、乙巳の変(622年)で中大兄皇子(天智天皇)によって滅ぼされてしまいます。
▶︎7世紀頃の系図 (注:私なりの解釈でまとめたものです)
牽牛子塚古墳が天智天皇の母、斉明天皇の墓だとすると、崩御されたとされるのが661年。
それ以前から着工されていたとしても、おそらく乙巳の変より後に築造されたものでしょう。
これは、牽牛子塚古墳が築造されたと推測される時期、7世紀中葉-8世紀初頭とも重なります。
一方の沼山古墳の築造時期は6世紀後半で、乙巳の変以前築造と考えられます。
もしかするとこれらは、一時代の盛衰を語る象徴的な古墳なのかもしれませんね。
ちなみに、身狭氏と祖先を同じくし、共に呉から来たとされる村主氏は、高市郡を拠点にしたようです。
天武天皇の子、高市皇子は高市郡で養育されたことからその名がついたとも言われ、その養育に村主氏が関わった可能性もありそうです。
天武帝亡き後、大田皇女の子大津皇子は謀反の罪に問われて処刑されますが、大津と同じ立場(持統天皇の実子ではない)でありながら、高市皇子は天武政権を引き継いだ持統政権に、太政大臣(だいじょうだいじん)という重役を与えられ、生涯仕え続けます。
もしかしたら、壬申の乱以降の勢力関係にも、彼ら渡来系氏族たちは影響力を持っていたかもしれませんね。