2021年の年末、姫路の古墳巡りに行ってきました。
姫路には、修復後の姫路城を観に行ったり、豊岡方面へ向かう途中に休憩した程度で、歴史散策目的としては初めて訪れました。
以前より、姫路を訪れた方からの情報や、地図を眺めて気になる地名に目をつけたりはしていましたが、やはり現地を訪れると見えてくるものが違いますね。
今回は、初見ということで、とりあえず心に引っかかった事柄を備忘録として残しておこうと思います。
謎かけ段階で結論には至っておらず、中途半端な内容ではありますが、最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
また、こちらに記した内容について、何か情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、コメント欄などで教えていただけるとありがたいです。
姫路にもあった甲山
海人族が好きそうな山
2021年12月、いつもの仲間たちと姫路市の古墳巡りに出かけました。
最初の目的地は、見野古墳群。
しかしそこまでに至る車中から、私の古代センサーはビンビン反応しっぱなし。
最初に目に入ってきたのは「安保(アボ)」という地名。(こちらについては、また後ほど深堀りします)
次に正面に現れた頭頂部がやや平らになった独立峰。
経験上、このような山は海人族が好きなんですね。
▶︎姫路の甲山 姫路フィルムコミッションより
調べてみると、その名もズバリ甲山。
カブト山といえば、西宮市に甲山、京丹後市に兜山が存在し、いずれも海人族が重要視していたと思われる川の河口部にある独立峰として、以前から注目しています。
どちらも兜を伏せたような形状がその名の由来と思われますが、河口部にある特徴的な山ということで、海から来た内外の船の目印になっていたのではないかと考えています。
▶︎京丹後市久美浜の兜山
▶︎西宮甲山 Wikipediaより
河口にこそ位置していませんが、奈良の畝傍山も形状が似ていますね。
畝傍山といえば、神武天皇が初代天皇に即位した場所。
海神の娘を母に持つ神武天皇。
海人族と無関係ではないでしょう。(独断)
▶︎橿原市の畝傍山
姫路の甲山も例に漏れず市川の河口部に位置しますが、他とは異なり「カブト山」ではなく、「コウ山」と読むそうです。
甲山には別名があり、国府山、功山とも書き、いずれも読み方は「コウ山」だそうです。
古い地名には先に響きがあり、それに漢字が当てられ、時にはその漢字の読みにより読み方がさらに変化したものもあると、私は考えています。
ですから、これらは元は同じであった可能性があると、個人的には思っています。(例 二上山=フタカミヤマ=ニジョウザン)
国府山との表記も、甲山の市川を挟んだ対岸に国府寺がありますので、後にその字が当てられたのかもしれません。
男鹿と妻鹿の伝承
甲山には、もう一つ「妻鹿山」という名称もあります。
おそらくこちらは「メガ山」と読むと思われます。
この「妻鹿」という名称に、私は覚えがあります。
それは、姫路の沖、播磨灘の家島諸島の一つ、「男鹿(タンガ)島」に残る伝承です。
伝承によると、もともと姫路市飾磨(しかま)区付近に生息していた雌雄の鹿のうち、雄鹿だけが渡り住んだことで「男鹿島」と名付けられたとされています。
これは、姫路側と男鹿島側に(鹿をトーテムとする?)同族が住み、西から近付く船を両岸から見張っていたということかもしれません。
それを裏付けるかのように、男鹿島には弥生の高地集落「大山遺跡」があり、姫路の甲山からも旧石器や弥生式土器が出土しており、高地性集落があったとされています。
高地性といえば、淡路島にある弥生時代の高地性鉄器製造群落遺跡「五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)」からも男鹿島方面は見渡せる位置にあり、彼らが同族であったとすれば、播磨から淡路、もしかしたら讃岐、小豆島まで広がる海の包囲網を張り巡らせていたかもしれませんね。
▶︎五斗長垣内遺跡から見た男鹿島と姫路方面
見野と美濃
ここまでですでに、頭の中は妄想でいっぱいでしたが、目的地である見野古墳群へ到着しました。
見野(ミノ)と聞いて、思わず岐阜県の旧国名「美濃」が浮かんだ私でしたが、案内施設「見野の郷交流館」で手にしたパンフレットを見て息を呑みました。
見野はもともと美濃だったの?と思い、調べてみると、「播磨国風土記」の飾磨郡の項にこのような記述があるそうです。
「美濃里。土は下の中なり。 右、 美濃と号くるは、讃伎国の弥濃郡の人、到来りて居りき。 故、 美濃と号く」
長緒訳:美濃の里。土壌の質は下の中。讃岐国の弥濃郡の人が移り住んだから美濃と呼ぶ。
美濃の部分を漢部(あやべ)と訳している資料があり、気になってさらに調べてみたところ、Wikipediaの漢氏のページに「美濃には技術部民が多く」とあり、ここでいう美濃とは地名ではなく氏族名を表しているようです。
漢部とは、秦氏と並ぶ渡来系氏族で、馬具(鞍部)や織物(錦部)など、技術力に優れた部族の総称です。
つまり、讃岐から渡来氏族である美濃が移住してきたため、この地は美濃と呼ばれるようになったということのようです。(岐阜の美濃が、漢部の美濃と関係があるかは調べきれなかったので、ご存知の方は教えてください)
個性的な見野古墳群の古墳
見野古墳群は、小富士山の東側に6世紀から7世紀にかけて築かれた群衆墳で、現在約20基が確認されているそうです。
でも、素人の感覚でも、小富士山にはまだまだ古墳が眠っているのではと感じました。
この小富士山、別名を麻生山、播磨富士ともいい、印象的な三連山の中央に位置する円錐型の綺麗な山です。
▶︎小富士山(麻生山) ひめじラボより
「〜富士」と呼ばれる山は各地に存在しますが、このような形状の山は、個人的には修験が好みそうな印象があります。
そう思い調べてみると、やはり山頂には麻生権現と呼ばれる祠があり、古くから修験の山として知られているようです。
こちらは立地的に、海からというより、市川を行き来する船からよく見えたのでは無いでしょうか。
アソからは麻を連想しますが、こちらに関しても「神功皇后の一行が西征伐でこの地に来て、一夜の間に麻が多く生い茂ったので弓の弦を作った」との伝承が山の名前の由来として残されており、おそらくこの付近では古代より麻が栽培されていたと考えられます。
また、小富士山の北側には阿保百穴古墳群という、見野古墳群と同じく古墳時代後期の群集墳があり、この地を拠点とした人々にとって特別な山であったことは間違い無いでしょう。
そんな、見野古墳群で印象的な古墳というと、なんといっても夫婦塚との別名を持つ6号墳でしょう。
横穴式石室が2つ並んでいて(双室墳)、しかもそれらは築造当初から羨道も奥壁もなく、石室の前後が筒抜けの造りになっています。
「本当に古墳なの?」
という疑問も浮かびますが、石室からは須恵器や装身具、馬具など数多くの遺物が出土していることから、やはり古墳なのでしょうね。
▶︎6号墳「夫婦塚」
続いては、見野古墳群最大の10号墳。
こちらは、その大きさから「姫路の石舞台」とも呼ばれています。
▶︎10号墳「姫路の石舞台」
古墳の大きさもさることながら、噴火による隆起でできたと思われる周囲の山々の形状が印象的。
10号墳の正面にそびえるのは、その名も「火山(ひやま)山」。
その西側から南側斜面には、見野古墳群と向き合うように、「火山古墳群」が分布しています。
長くなりますので、今回はここまで。
続きはまた後ほど。