目次
古墳巡りで感じた違和感
少し前になりますが、初めてのコミュニティでの古墳巡りに参加しました。
テーマは、猪名川沿いに点在する古墳群です。
今回巡ったのは、
二子塚古墳
鉢塚古墳
池田茶臼山古墳
五月ケ丘古墳
呉羽神社
中筋山手古墳
中山寺古墳
など。
池田茶臼山古墳
なぜこの一帯に、古墳と渡来系の痕跡がこれほど重なっているのか。
その答えを求めて、今回は中山寺から深掘りしてみたいと思います。
忍熊皇子の石棺と「安産の寺」の由来
寺伝によると、当地は仲哀天皇と先后大中姫の子である麛坂(かごさか)皇子と忍熊(おしくま)皇子、とりわけ忍熊皇子の霊を祀るために応神天皇によって開かれた地とあるようです。
忍熊皇子は私の推しの一人で、境内にある忍熊皇子のものとされる石棺は、個人的には泣きポイントです。

中山寺の境内に置かれた忍熊皇子のものとされる石棺
この石棺は、昔は手水鉢として使用されていて、ここで手を清めると安産になるとの伝承があり、これが現在、中山寺が安産の寺と言われる所以かもしれません。
安産のご利益があるとされるのは、仲哀天皇の後妻である神功皇后が、身重でありながら三韓征伐から凱旋し、無事に応神天皇を産み落としたことに由来するのでしょう。
しかしながら忍熊皇子は、その応神天皇が即位するために倒された前妻の子です。
そんな敗者側の棺が、勝者側の安産にあやかる手水鉢にされていたということに、皮肉を感じます。
中山寺創建時期と古墳築造年代の誤差
中山寺は、聖徳太子が蘇我氏に敗れた物部守屋と、大中姫、麛坂皇子、忍熊皇子の霊を鎮めるために創建したと伝わります。
守屋が滅ぼされた丁未の乱は587年とされますから、寺の創建はそれ以降でしょう。
境内には、大中姫の墓と伝わる古墳(白鳥塚古墳)もあり、築造時期は6世紀末〜7世紀初頭とされています。

大中姫の墓と伝わる白鳥塚古墳 中山寺の境内にある
応神天皇が即位したのは四世紀後半と考えられるので、大中姫が生まれたのはそれより一世代か二世代前。
つまり、年代的に白鳥塚古墳が大中姫の墓ということはあり得ないのです。
ならば、この地に忍熊らの霊が鎮まっているというのは、完全なフィクションなのか……と言えば、そうとも言い切れないのです。
ここからはその根拠について、大中姫の家系から深掘りしていきます。
大中姫と「大江氏」の謎
忍熊の棺のそばには、解説板が立てられており、そこには、大中姫は大江氏出身であると書かれていました。

大江氏と言えば、桓武天皇の母方である土師氏が、賜った姓と認識しています。
しかし、4世紀に生きた大中姫の出自が、8世紀以降に姓を受けた大江氏というのは、おかしな話です。
ここは逆転の発想で、大中姫がやがて大江氏に繋がると考えた方が良さそうです。
和氏と百済系渡来人の系譜
大江姓を賜った、桓武天皇の母「新笠」が所属する氏族を調べてみると、和氏(やまとうじ)とあります。
新笠の父方は和氏であり、土師氏というのは母方のことだったのです。
日本書紀には、和氏とは百済の武寧王の子孫とされる一族で、武烈天皇7年(推定505年)に渡来した、武寧王の王子から始まる氏族とあります。
百済系といえば、7世紀後半に大阪を拠点とした百済王氏(くだらのこにきし)がよく知られていますが、書紀の内容が正しいとすれば、和氏はそれより数百年前に渡来してきた、百済系帰化人ということになります。
500年代ということは、4世紀ですから大中姫や忍熊の時代とも重なってきます。
猪名川流域に広がる渡来人ネットワーク
猪名川沿いには、渡来人の痕跡が多くみられます。
例えば、池田市の語源とされる伊居太(いけだ)神社は、応神天皇の時代に呉から来た機織姫(アヤハトリ)を祀る神社として知られています。
境内には、機織姫を連れて来た、阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかのおみ)父子(総称 猪名津彦)も祀られており、彼らは東漢氏(やまとのあやうじ)の祖とされています。

伊居太(いけだ)神社の摂社「猪名津彦社」阿知使主と都加使主父子(総称 猪名津彦)を祀る
※今回は訪問していません
「続日本記」によると、阿知使主は後漢霊帝の曾孫とあり、応神天皇の時代には呉に派遣されていますので、それ以前から渡来していたのでしょう。
彼の子孫である東漢氏は、百済の技術者を積極的に呼び寄せていることから、百済系渡来人と関係を深めた可能性があります。

呉服神社 阿知使主父子が呉から連れてきたとされる機織姫クレハトリを祀る
中山寺と聖徳太子の関係
ここでもう一度、中山寺の創建について、振り返ってみましょう。
「聖徳太子が蘇我氏に敗れた物部守屋と、大中姫、麛坂皇子、忍熊皇子の霊を鎮めるために創建した」
聖徳太子の母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后は、蘇我氏と物部氏の争いが過熱する中、幼い太子を伴って丹後方面へ逃れています。
間人(たいざ)に鎮座する水無月神社の社伝には、この時、東漢直駒(東漢氏)や穂見中江麿等ら7人が、皇后の供をしたとあります。
先述のように、阿知使主は東漢氏の祖とされ、彼らが地の利が無い地域に皇后らを匿うとは考えにくいため、丹後方面には東漢氏のコミュニティがあり、間人皇后は彼らの後ろ盾を得ていたと推測されます。
であれば当然、聖徳太子にとっても渡来系氏族は、近しい存在だったでしょう。

京丹後 間人皇后・聖徳太子 母子像
佐紀古墳群と猪名川沿岸の古墳群
奈良県奈良市押熊町にある「忍熊王子・麛坂王子旧跡地」には、「忍熊皇子は佐紀の王だった」と書かれています。
ここより少し南下すると、そこには佐紀古墳群があります。
「ただの伝承」と一蹴されるかもしれませんが、私個人としては、あり得ない話ではないと考えています。
その根拠は、主に以下の2点です。
①忍熊皇子が倒され、応神天皇が即位する流れに応じるように、巨大古墳群が佐紀から河内へ移動する。
②忍熊皇子が築造したと伝わる垂水の五色塚古墳が、佐紀陵山古墳(日葉酢姫陵)と相似形である。
佐紀陵山古墳は、丹後の網野銚子山古墳、岸和田の摩湯山古墳、伊賀の御墓山古墳とも相似とされ、南北は大阪湾沿岸から日本海側まで、東西は三重県から明石まで、同じ勢力が広がっていた可能性があります。
忍熊という人物が実在したかはわかりませんが、記紀の内容は、河内勢力以前に旧勢力があったことを物語っているような気がしています。

網野銚子山古墳からの眺め
伝承とリンクする古墳
では、忍熊皇子の伝承が残る猪名川周辺の古墳に、佐紀古墳群との共通性は見られるのでしょうか?
佐紀古墳群が全盛であった4世紀、この周辺で最初に佐紀の影響を受けたと思われる古墳は、宝塚の長尾山古墳です。
名前にある通り、こちらは長尾丘陵に4世紀初頭に造られた古墳で、ここから7世紀にかけてこの丘陵には、次々と古墳が造られていきます。

中筋山手東古墳群 2号墳 こちらも長尾丘陵に造られています
5世紀に入り、河内勢力の時代になると、この地域でも朝鮮の影響を受けた古墳が造られるようになり、これは、応神天皇の時代に阿知使主(東漢氏)が呉から機織姫を連れて来たとの伝承ともリンクします。
猪名川周辺には、長尾丘陵のほか、長尾地名や長尾街道などもありますが、これは東漢氏の後裔「長尾氏」に由来するのかもしれません。

猪名川 左上の法面上部あたりが鼓ヶ滝遺跡
高槻市の岡本山古墳は3世紀末築造と考えられ、猪名川より淀川沿岸の方が先行していたと考えられます。
三島と呼ばれるこの地域は、以前ブログにも書いたように、百済の努理使主(ぬり の おみ)を祖とする吉士氏が、丹後から南下してきて定住したと考えられる地域です。
和氏は百済の武寧王の子孫。
努理使主も百済の武寧王の子孫ということで、両者は同族と思われます。
これらを繋ぎ合わせると、丹後を起点に南下してきた渡来系帰化人が、淀川から猪名川へと拠点を広げていったことが推測されます。
過去記事「調(つき)神社から」
https://kinasa.aqua-originality.com/2026/02/23/tukijinjya/
古墳時代以前の猪名川周辺
次に、4世紀以前のこの地域はどうだったのか調べてみましょう。
現在の川西市栄根地域にある加茂遺跡は、弥生時代の集落遺跡です。
そこには賀茂神社が鎮座しており、高さ約114cmの銅鐸が出土しています。
川西には、オオタタネコの子孫である大神氏が住んでいたとされ、大神氏は賀茂氏と同族ですから、加茂遺跡も彼らの居住地だったのかもしれません。
長尾丘陵にある満願寺遺跡からも銅鐸が出土しており、長尾山古墳が造られる以前から、この辺一帯に、一定の勢力がいたことは間違いなさそうです。
加茂遺跡から猪名川を3kmほど北上した「鼓ヶ滝遺跡」からは、丹後の弥生土器が出土しており、この頃から日本海側と交流があったことがわかります。
川西から亀岡へ抜ける423号線は、「摂丹街道」とも呼ばれ、日本海へのアクセス経路でした。

まとめ
こうして見ていくと、猪名川流域に残る古墳や伝承は、単なる地域史の断片ではなく、古代日本のもう一つの流れを示しているように思えます。
4世紀、佐紀古墳群に代表される旧勢力の時代。
5世紀、河内を中心とした新たな王権の時代。
その大きな転換のはざまで、猪名川流域には、王家を技術力で支える人々が存在しました。
それが、東漢氏をはじめとする渡来系の人々、和氏や大江氏へとつながっていく系譜です。
中山寺に残る忍熊皇子の伝承。
伊居太神社に祀られる阿知使主。
大中姫から桓武天皇の母へと連なる系譜。
一見バラバラに見えるこれらの点は、「渡来系ネットワーク」という視点で見たとき、一本の線として繋がり始めます。
忍熊皇子が実在したかは定かではありません。
しかし、記紀が語ろうとした「敗者の記憶」は、この地に確かに残されているように感じます。
古墳と伝承、渡来系の痕跡。
それらが重なって見えるとき、猪名川の流れの中に、古代国家の形成過程が映し出される気がします。
付録:歴史的背景と古墳築造時期
猪名川沿岸に造られた古墳と、出来事の一覧です。
※は、今回訪れた古墳。
4世紀
佐紀古墳群全盛期4世紀末から5世紀前半
長尾山古墳(4世紀初頭)
万籟山古墳(4世紀前半〜中期)
五色塚古墳(4世紀末〜5世紀初頭)
5世紀
百舌鳥・古市古墳群全盛期
応神天皇が、忍熊皇子の霊を鎮めるために中山の地を開く。
応神天皇の命により、阿知使主(東漢氏)が呉から機織姫を連れてくる。
6世紀〜7世紀
※二子塚古墳(6世紀前半〜中頃)
和氏渡来。(505年)
聖徳太子が間人皇后、東漢氏らと共に丹後へ逃れる。
聖徳太子が物部守屋や忍熊皇子を祀るために中山寺を建立する。(587年以降)
※中筋山手東古墳2号墳(6世紀後半)
※白鳥塚古墳(伝 大中姫陵)(6世紀末〜7世紀初頭)
※鉢塚古墳(6世紀末〜7世紀)
8世紀
桓武天皇が母方に大江姓を与える。