明らかになった七支刀の製作年
最終日に滑り込んだ「超 国宝」展。
お目当てはもちろん、「七支刀」です。
最終日なので混雑を覚悟していましたが、意外にもじっくりと観ることができました。
七支刀のことが知りたくて調べていたら、駒澤大学名誉教授 瀧音 能之氏の寄稿記事を見つけました。
とても興味深かったので、自身が理解を深めるために咀嚼してブログにまとめました。
(氏の寄稿記事は、最下段にリンクを置いています)
「百済の世子(跡継ぎの王子)が倭王にふさわしい刀を作らせた」との趣旨の銘文が金象嵌された、左右に枝刃を持つ不思議な刀。
最新のX線CT調査により、製作年が泰和四年(西暦369年)と読み取れる可能性が高まりました。
この年代が正しければ、高句麗が百済に侵攻した年であり、百済の近肖古王はこれを返り討ちにして勝利し、372年には、中国の東晋から百済王の地位を与えられています。
またこの時、子である余須も世子(跡継ぎ)の地位を得ており、七支刀に刻まれた世子とは、彼のことではないかと推測されます。
この時期は、中国の文献から倭国についての記述が消える、いわゆる空白の4世紀に当たり、奈良の佐紀古墳群が造られた時期とも重なります。
アメノヒボコと新羅系渡来人
歴史学者の黛弘道氏は、アメノヒボコ伝承地と兵主神社の分布地が重なることに注目しました。
「史記」によると兵主神とは山東半島で信仰された武神とのこと。
氏は、山東半島から楽浪・帯方郡に移住した兵主神を信仰する人々は、4世紀初頭に侵攻してきた高句麗から辰韓(新羅)に逃れ、そこからさらに倭国に渡ったとしています。
画像引用:https://rekisi-daisuki.com/entry/2018-11-29-103443#google_vignette
これとは別に、山東半島から移動してきた製鉄民が、2世紀末に侵攻してきた公孫氏から逃れて辰韓地域から但馬に渡来したとの説もあるそうです。
いずれにせよ、古くから但馬は継続的に、鉄やガラス技術を持つ新羅系渡来人を受け入れており、アメノヒボコは彼らを受け入れる側の王であったと考えられます。
但馬國一宮 出石神社
※日本書紀には、神功皇后と卑弥呼を同一とする意図があったと考えられ、神功皇后の年代を120年前倒ししている可能性があります。
そのため、以下の日本書紀の年代は120年加算しています。
日本書紀にも記された七支刀
そんなアメノヒボコの子孫である神功皇后の時代(372年)に、「七枝刀(ななつさやのたち)が、百済から倭王に贈られた」と、日本書紀には記されています。
また、古事記には応神天皇の時代に、百済の国主の照古(しょうこ)王が、横刀等を献上したとあります。
ここにある照古王とは、先出の近肖古王(在位期間346〜375年)のことと考えられ、七支刀に刻まれた年号泰和四年(西暦369年)も在位期間に含まれます。
近肖古王画像引用:https://tv-aichi.co.jp/kandora/geunchogo-wang/story/
長年、新羅と関係を深めていた倭国が、いつから百済との交流を始めたのか。
この点についても、日本書紀から読み解いていきましょう。
日本書紀の神功皇后紀には、甲子年(364年)に伽耶の卓淳(とくじゅん)でヤマト王権が百済との外交交渉を行なったと記されています。
当時の伽耶は、新羅と百済のいずれとも交流する一方で、「日本府」が設置されるなど、ヤマト王権とも関係が深い、いわゆる中立国でした。
ここでの交渉の結果、367年、百済王がヤマト王権側に朝貢することを誓ったと記されています。
ここまでの流れをまとめると、
364年 伽耶にてヤマト王権と百済の国交交渉開始
367年 百済王がヤマト王権側に朝貢を誓う
369年 百済で七支刀が作られる / 高句麗が百済に侵攻し、返り討ちにあう
372年 七支刀が、百済から倭王に贈られる / 中国の東晋から百済王の地位を与えられる
となります。
個人的感想
神功皇后は、朝鮮半島へ侵攻しますが、彼女の実在性はともかく、長年、新羅人を受け入れてきたアメノヒボコの子孫が、交渉の場に同席した可能性は十分考えられます。
百済との交渉がうまくいけば、必然的に百済に敗れた高句麗もそれに従うはずで、外交的に、新羅、百済、高句麗の三韓征伐が達成できるわけです。
神功皇后画像引用:https://kyoto-kyuteibunka.or.jp/column/1806/
三韓征伐を成して凱旋した神功皇后は、仲哀天皇の前妻の子、カゴサカ王と忍熊王を倒し、彼女の実子である応神天皇が皇位を継ぎます。
これにリンクするように、天皇クラスの古墳群の造成地が佐紀から河内へ遷ります。
佐紀古墳群の王であったとの説もある忍熊王。
この政権交代劇の裏にも、半島のパワーバランスの変化があったのかもしれませんね。
参考資料