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「調」は「月」なのか
以前から、埼玉県に兎が神徒の「調(つき)神社」があるとの噂を聞いていましたが、少し時間ができたので調べてみることにしました。
調を「つき」とはなかなか読めませんが、貢ぎ物のことを調物というそうです。
当社の社名も、伊勢神宮に献上する調物を納める倉を建てた武総野、すなわち関東一円の初穂米・調(つく)の集積所と定めたことに由来するそうです。
「つき」と「うさぎ」と聞くと、ついつい兎の化身とされる「月読」を思い浮かべてしまう私としては、ちょっと残念に思いました。
一応、祭神を月読とする説もあるようですが、それも単なる「つき」という響きから結び付けられたものとすれば、それはよくあることなので……。

調神社(埼玉県さいたま市浦和区岸町)
「今回は見当が外れたかな」と諦めかけた時、Wikipediaの記述の中に、「調氏が奉斎したという説もある」との一文を見つけました。
調氏は、中国周人を祖先にもつ百済の努理使主(ぬり の おみ)を祖とする一族で、のちに調吉士(つきのきし)と呼ばれることになったとあり、当社鎮座地である「岸」も、「吉士」から来ている説もあるとのこと。
となれば、今度は「吉士」が気になってきます。
調べてみると、吉士は、大草香皇子(おおくさかのみこ)が暗殺されたとき、殉死した忠臣—難波吉士日香蚊(なにはのきしひかか=以下ヒカカ)の後裔であることがわかりました。
悲劇の皇子と忠臣ヒカカ
大草香皇子が暗殺される経緯は以下のようなものです。
大泊瀬皇子(以下雄略天皇)大草香皇子の同母妹 草香幡梭姫皇女との婚姻を求めて使者を送ったところ、皇子は快諾し、宝冠・押木珠縵(おしきのたまかつら)を送りました。

宝冠・押木珠縵(イメージ)ティリヤ・テペ遺跡出土(アフガニスタン)
ところが、この宝冠に目が眩んだ根使主(ねのおみ)がそれを盗み、安康天皇に、「大草香皇子が縁談を拒否した」と虚偽の報告をしました。
これにより怒りを買った大草香皇子は暗殺され、主君の死を悲しんだヒカカは、二人の息子と共に殉死しました。
16年後、真実が明らかになり、雄略天皇は根使主を誅殺します。
そしてヒカカの名誉を回復し、彼の子孫に大草香皇子の名に由来する「大草香部」の名を与えました。
大草香皇子の「クサカ」という名は、日向の髪長姫を母に持つ皇子が、日向を発祥とする日下部(くさかべ)氏の血縁であることを物語っています。
日下部氏は月読を祖神とする一族であり、また、四道将軍として丹後に送られた開化天皇の子 彦坐王(ひこいますおう)の後裔ともされ、丹後とは関係が深い一族です。
古代朝鮮語で「王」を意味する吉士
皇子の忠臣であったヒカカは、垂仁天皇の子 大彦の子孫とされ、阿倍氏と同族とされています。
名にある「吉士」という称号は、古代朝鮮語で「王」や「首長」を意味するそうです。
「調氏」のところでも書いたように、「吉士」には百済系統のほか、新羅の王子 天日槍を祖とする系統もあるとされ、いずれにしても渡来系の王族、あるいは首長階級の血を引く存在だった可能性があります。
また、「難波」という名に関しても、渡来人が上陸したり荷揚げをする場所とされており、彼らはそこを港にした渡来系技術者と考えられています。
難波というと、難波宮があった大阪城の辺りを思い浮かべますが、丹後の宮津市にも難波野という地名があります。
彦坐王の伝承や子孫である日下部氏が多く残り、月読を祀る神社も多数見られる丹後の難波が、もしかしたら彼らが主とする港だったのかもしれません。

解体された武内宿禰の子孫たち
一方、根使主が誅殺されてから彼の子孫は2つに分けられ、茅渟県主と、ヒカカの子孫である大草香部に、賎民(奴隷)として与えられます。
武内宿禰を祖とする彼らの失脚は、神功皇后を勝利に導いて以降、朝廷で権力を独占していた葛城氏の終焉を意味しているのかもしれません。
神功皇后の朝鮮出征に同行し、勝利をおさめた武内宿禰は、皇后と共にヤマトに凱旋しました。
しかし、その頃ヤマトでは、皇后の亡き夫 仲哀天皇と前妻との間に生まれた麛坂皇子(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまおう)兄弟が治めていたと考えられます。
この時、ヒカカの同族の祖先である五十狭茅宿禰(いさち の すくね) が忍熊王の将軍に任命 され、東国の兵を興したと日本書紀にはあります。
つまり、根使主とヒカカは、先祖の時代にも敵対しており、当時は、皇后軍(武内宿禰)が勝利しました。
この時、武内宿禰と共に戦った人間の中に、難波根子武振熊という和邇氏の武将がいます。
敵対する相手同士でありながら、こちらの人物の名前にも「難波」があります。
これも先述したように「難波」が固有名詞ではなく、港湾拠点を意味すると考えれば不思議ではありません。
そんな、丹後と畿内の難波を起点として、船を漕ぎ出した人々が交わるとすれば、北から流れてくる桂川と、西へ流れる淀川の合流地点でしょう。
桂川(大堰川)を下ってくると、最初に小椋池が広がり、そこで淀川や木津川、宇治川などと合流します。
そこから淀川に乗りかえて西に進み、生駒山脈を越えると大阪平野に巨大な河内湖が現れます。
古代河内湖イメージ(AIによる再現)
北摂を拠点にした「吉士」と和泉を拠点にした「根使主」
そんな河内湖の北端 現在の茨木市・高槻市のある地域は、摂津の藍野と呼ばれていました。
藍野の藍は安威とも書きますが、現在の相川がその名の名残と思われます。
この地域は、三島とも呼ばれ「吉士」の拠点でした。
高槻市には弥生時代の安満遺跡のほか、古墳時代の登窯や王墓級の古墳(今城塚古墳)があります。
丹後在住の方のお話によると、丹後とこの三島地域の弥生墳墓には、共通性が見られるそうです。
丹後を出港した「吉士」は、ここを畿内の拠点としたのですね。

史跡新池ハニワ工場公園(大阪府高槻市)
一方の河内湖の南東側には応神天皇陵もある古市古墳群があり、ヤマトへの入り口である大和川もありますので、応神朝時代にはそちらが主流になったのでしょう。
そして、そこから峠を越えた大和側の山麓には、武内宿禰の子孫が勢力を持つ葛城が広がっています。
しかし根使主は、葛城ではなく、和泉市坂本町辺りを拠点にしていたとされています。
宝冠を盗んだ罪で追われている時、根使主は日根(現在の泉佐野を中心とする南泉州)方面へ逃げたとあり、彼らは泉州地域の広い範囲に勢力を持っていた可能性があります。
坂本町は和泉市の中でも比較的海に近く、周辺には池上曽根遺跡のほか、弥生遺跡が多くあることでも知られています。
もしかしたら彼らは、想像以上に昔から、この地に定住していたのかもしれません。

池上曽根遺跡(大阪府和泉市)
共に港湾を管理する海人族同士の争い?
そんな根使主の祖 武内宿禰は隼人の長だったとの伝承があり、その説を私も支持しています。
その根拠の一つが、根使主が日根に逃げた際、稲城を建てたというエピソードです。
同様に記紀の中で稲城を建てたと伝えられる人物が、彦坐王の子 狭穂彦です。
垂仁天皇に反乱を起こした狭穂彦の妹 狭穂姫は、兄のもとに走り、稲城の中で天皇の子を出産します。
しかし、敗北を悟った狭穂彦は、自ら城に火を放ち、妹とともに炎に飲みこまれます。
似たような話は、ニニギの妻コノハナサクヤ姫の章にも見られます。
夫に不義を疑われた姫は、炎に包まれた小屋の中で出産することで、潔白を証明するのです。
コノハナサクヤ姫は海神の娘であり、すなわち海人族と考えられます。
稲城、炎、出産、これらから連想するのは産屋です。
妊婦が出産する前後を過ごす小屋を産屋(うぶや)といい、これは昭和まで残されていた海人族の慣習です。
近代にはしっかりした建物を建てて再利用したようですが、昔は産屋を使った後は、燃やしていたそうです。
稲のような燃えやすく脆いもので城を築くとは考えにくいため、稲城とは海人族の代名詞と考えています。

産屋(京都府福知山市/大原神社)
コノハナサクヤ姫が産屋で産んだ子に、海幸と山幸という兄弟がいました。
ある日、兄弟の間に争いが起きますが、海神を味方につけた山幸に海幸は敗れ、弟に服従することを誓います。
そんな海幸は隼人の祖とされ、隼人が信仰していた神も月読です。
つまり、日向の血をひく大草香皇子、隼人の子孫とされる根使主、いずれも南九州を出自とする海人族であり、月読を信仰していた可能性があるのです。

隼人舞(京都府京田辺市/月読神社)
一見、同族争いをしたように見える両者ですが、実は、一連の事件の中で「得」をした人物がいます。
権力争いの敵(大草香皇子)を亡き者とし、その敵を慕うヒカカと、吉士一族をもろとも一掃する。
そして、吉士の牙がすっかり抜けた頃に、今度は根使主を誅殺し、その子孫を解体して賎民とする。
そう、大草香皇子亡きあとに即位した雄略天皇です。
稀代の策士?「雄略天皇」
一度は失脚させた吉士の名誉を回復することで恩を売り、彼らの元へ先祖の仇である根使主の子孫を奴隷として送りつける。
2つに解体された上に、奴隷とされた根使主の子孫に、もはや抵抗する力は残されていなかったでしょう。
結果的に葛城を壊滅し、優秀な渡来系技術者である吉士を手中に収めることができた。
これらが全て計算づくであったとしたら、雄略天皇は恐ろしいほどの策士ですね。
大草香皇子の事件より2年後(安康天皇三年)にも、雄略天皇は同じくライバルであった市辺押磐皇子の暗殺し、皇子の子ら(顕宗天皇、仁賢天皇)を中央から追い出すことに成功しています。
兄弟の留守中、空位を避けるために即位したとされる姉(もしくは叔母)の飯豊青皇女の宮は、葛城の忍海とされます。
と言うことは、彼女の肉親である市辺押磐皇子やその子供たちも、葛城の血を引いていたのでしょう。
おそらく雄略天皇は、この時も葛城勢力の弱体化を図ったものと思われます。

忍海角刺宮跡(角刺神社)/飯豊青皇女の鏡池(奈良県葛城市忍海)
金錯銘鉄剣とヒカカの子孫
ここで再び、「調神社」に話を戻しましょう。
「調神社」は埼玉県に鎮座します。
埼玉県といえば、「さきたま古墳群」の稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣」が知られています。

稲荷山古墳(埼玉県行田市/さきたま古墳群)
この鉄剣には、被葬者とされる「ヲワケノオミ」の先祖が、代々武官の長として大王に仕えてきたこと。
また、彼がワカタケル大王の補佐をした功績を記録するために、「辛亥の年(推定471年)」に剣を作らせたことが記されています。
ここにあるワカタケル大王とは、雄略天皇のことです。
また、ヲワケノオミの祖先は大彦と書かれていることから、彼は阿倍氏と同族ということになります。
ここで、冒頭部分で触れた「吉士氏」の出自についても思い出してみてください。
そう、大草香皇子の忠臣 難波吉士日香蚊(ヒカカ)も大彦の子孫とされ、彼の一族である吉士氏も阿倍氏と同族とされているのです。
大草香皇子が暗殺され、ヒカカが殉死したのは、雄略天皇が即位する以前の出来事です。
その16年後に根使主が誅殺され、同時に吉士氏は復権したとされており、その時点では雄略天皇は即位しています。
日本書紀から推定されるヒヒカが殉死した年は454年(安康天皇元年2月)。
それから16年後ということは、計算上470年になり、「金錯銘鉄剣」が製作年として刻まれた471年の1年前です。
このタイミングから、雄略天皇により復権した吉士氏が、絶対の忠誠を誓うために、言葉を剣に刻んだとも考えられないでしょうか。

金錯銘鉄剣(稲荷山古墳出土)
密かに日下部を慕い続けたヒカカの子孫
「調神社」の社記によると、創建は開化天皇の時代。
ヒカカが忠義を尽くした大草香皇子は、開化天皇の子 彦坐王(ひこいますおう)の後裔 日下部氏の血縁です。
由緒に書かれた年代が正しいとすれば、「調神社」は日下部氏か、もしくは彼らを主と仰ぐ吉士氏が建てたものかもしれません。
だとすれば、日下部氏の祖神 月読の化身である兎を神徒としていることも、偶然やこじつけではないかもしれません。
天照大神とは異なる太陽神
478年、雄略天皇は伊勢神宮外宮を建立しています。
これは壊滅された葛城氏の反感を抑えるためとも言われていますが、同じくルーツを南九州とする日下部氏の反乱分子を抑える意味もあったのかもしれません。
「調神社」の社記には、崇神天皇の時に伊勢神宮斎主の倭姫命が参向し、清らかな岡である当地を選び、伊勢神宮に献上する調物(貢ぎ物・御調物)を納める倉を建てたともあります。
つまり、雄略天皇が即位するより何世代も前から、当社は伊勢神宮とは縁が深かったと思われます。(ここで言う伊勢がどこを指しているかは考察中)

松尾大社摂社月読神社(京都府京都市西京区)
呼び戻された月の神
京都の月読神社は、雄略天皇が崩御したあと、清寧天皇の後を継いだ顕宗天皇により、壱岐の月讀神社から勧請されました。
顕宗天皇は先述したように、雄略天皇により暗殺された市辺押磐皇子の御子であり、父が暗殺された後に丹後方面へ逃れていることからも、北近畿に支援者がいたと考えられます。
月読神社の創建にあたって、壱岐県主祖の押見(おしみ)宿禰が祭司として呼ばれていますが、彼は卜部(うらべ)氏とされています。

月讀神社(長崎県壱岐市)
卜部氏は壱岐では月神を、対馬では太陽神を信仰しており、彼らにとっての太陽神は天照大神とは別の神であったと言われています。
奇しくも、外宮が創建された年に、丹後風土記にある浦島伝説の主人公 浦島子は、常世の国(竜宮城)に旅立っています。
島子の大祖は月讀命(壱岐卜部氏)であり、彼は、丹後の領主 日下部首(くさかべのおびと)等の先祖とされています。
日下は日の下(もと)と書き、太陽を意味するとも言われています。
仮に、日下部の血を引く皇子の失脚により、彼らが祀る太陽神とは異なる天照大神が伊勢神宮に祀られるようになったとしたら……。

皇大神宮別宮 月讀宮(三重県伊勢市)
顕宗天皇は壱岐から月読を勧請することで、かつて自分たちの祖先が信仰していた神を取り戻そうとしたのでしょうか。
しかし、常世の国から戻った浦島太郎が、すっかり様変わりした世間を見て絶望したように、時すでに遅しだったのかもしれません。
【付録1】大草香皇子事件の相関図

【付録2】時系列年表
